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倉敷市天城 昭和の風物詩T


倉敷市天城
昭和の風物詩


天城の起こり
星島繻閑の古帳書物写しによれば「藤戸向嶋を広田嶋には





青海大膳桜山に城築、
元久年中居城す、
嘉吉二年天子家臣天野六左衛門居城してより天城と号す、
天は海に通じ、城はもとより城をあらわしており、
海に臨んだ城があったので、
この名がでてきたのであろう。



池田家は、岡山池田家の家祖池田輝政の兄元助(小牧長久手の合戦で輝政の父恒興共々討死)の嫡男由之より始まる。



初代由之は、叔父輝政が姫路城主となった時には利神城を築き、本家3代光政が鳥取移封の時には米子城主となった。


天城家2代由成は、寛永6年、池田光政が鳥取城からから岡山城へと移封され、
池田天城・伊木・片桐池田・日置)・森寺池田)・土倉の六家老を領国の要所に配置した時、備前下津井城主で32,000石を領した。



寛永16年、一国一城令により下津井城が廃城となり、
由成は天城に陣屋を構え、
以後代々天城を領して11代政和の時に明治を迎え、
現在でもその当時の面影が町並みにみられるます。



倉敷川によって藤戸町藤戸と天城に分けられている。

児島がかって本土と切り離れて海であった頃、児島の藤戸と広田島の天城の間が狭く潮流が早く波立つさまが、藤の花のようであったから名づけられた。

宇喜多氏・小早川氏の支配を経て、慶長8年から岡山藩領。元和元年(1615)の一国一城令により、
下津井城が廃城となったため、3万2千石を領する家老池田由成が寛永16年(1639)に当地天城の広田山北西部の台地桜山に陣屋を構え、
御茶屋と呼ばれる陣屋を中心に町づくりを行った。

天城陣屋絵図によると、陣屋の南に家老などの武家屋敷38軒を並べ、
その西側に海禅寺など4寺と足軽小頭屋敷が並んでいた。

武家屋敷の南西には木戸があり、町家と接していた。

言い換えれば桜山の南西部が町家があった。寛永19年(1642)には岡山藩より在町に指定され
居商が公認された。

享保6年(1721)の「備陽記」には町並として天城町・上之町・下之町が記され
、家数115軒・人数733人、町家142軒・同人数726人である。

文化年間(1804〜18)の「岡山藩領手鑑」によると町分家数119軒・同人数489人、村分家数150軒・同人数658である。武家屋敷・町人町をもつ陣屋町として発展した天城は、典型的な陣屋町であった。今町並は陣屋町時代の武家屋

敷辺りには白漆喰塗り込め中2階建ての建物が、かっての町屋辺りには切り妻造りの中2階建てで、
虫籠窓を持った古い商家の建物が残り、往時の面影を色濃く今に伝えている。


写真提供 玉田正俊・譲


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